フェルド速報

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カテゴリ: 歴史

1 :首都圏の虎 ★:2020/09/20(日) 02:58:37.07 ID:AbfYihaZ9

サムネイル (乃至 政彦:歴史家)

慶長5年(1600)9月15日に行われた関ヶ原合戦。この戦は上杉景勝の家宰である直江兼続が、徳川家康に対して叩きつけた「直江状」によって引き起こされたとされる。しかし、直江状には原書がなく、その写しも書かれた時期によって内容が変化していることが見えてきた。本文を考察しながら「直江状」の内容及び真偽に迫る。(JBpress)

■ 関ヶ原合戦の原因とされる書状

 関ヶ原合戦を起こしたのは、直江状と言われている。

 上杉景勝の家宰である直江兼続が、徳川家康に対して叩きつけた挑戦状である。

 ただしよく知られている通り、直江状は原書が存在していない。いま伝わっているのはすべて写しなのである。このため、直江状は江戸時代に作られた文学的な作品であると見る作家や研究者が多い。もちろん逆に当時、兼続がほんとうに書いたものだという専門家もいる。

 それで研究者たちが検証したところ、直江状の写しは、書かれた時期によって、内容が少しずつ変わっていっている様子が見えてきた。初期の写しは上杉家謀反の噂を聞いた徳川家康に「それは事実ではありません」と弁明する内容で、それがあとから往来物として挑発的に読み替えられていき、やがて「疑うならこちらまで来ればいい。お相手しますから」との追記が加えられることになったのである。

 さて、直江状が実際にあったとして、それがもともとは上杉無罪を訴えるものだったとしたら、これを起点に勃発する関ヶ原合戦は徳川家康の強引さが巻き起こした事件ということになる。しかし、同時代の人々の記録を見ると、どうもそうではなく、上杉家は自ら挑発したということが伝えられている。これは家康の印象操作の可能性も疑われようが、それでは、景勝および兼続は、実際にどんな態度を取ったのだろうか。

■ 本文の考察

 その訳文や本文およびその考察は書店に並ぶ歴史書だけでなく、インターネットでも検索することができるので、ここでは略する。ただ、直江状というのは徳川家康に宛てられたものではない。当時、京都にいた兼続の友人である僧侶に宛てられた書状なのである。

 そして同時代の京都の記録に、この僧侶と直江兼続が手紙を交わしていたことが伝えられている。直江状の実在を肯定する論者は、この記録がその証拠ではないかと見ている。しかし、これが実は謎を解く大きな鍵となるのだ。

 この僧侶が兼続に送った書状というのも写しが残されている。直江状はこれに対する答書の形をとっている。

 通説によると僧侶の書状は、徳川家康の意を受けて、兼続に難詰する内容とされている。しかしよく読み返すとそのようではない。少なくともこの書状を送った西笑承兌という僧侶は、威勢ある権力に屈して友人を売るタイプの人物ではない。

 明国から豊臣秀吉に国書が送られたとき、西笑承兌は翻訳を担当したが、秀吉の重臣・小西行長は「この国書を直訳すると秀吉さまは必ずお怒りになる。だからよく忖度するように」と助言されたが、そんなことお構いなく直訳して、予想通り秀吉を激怒させている。朝鮮出兵が長期化したのもこれが原因である。

 真実を真実と言って憚らない、融通の効かない学者だったのだ。もちろん家康に懐柔されて、兼続や上杉家を政治利用する陰謀に加担することも考えにくい。

 それで、長文の西笑書状を見ると、これは詰問状ではなく、兼続の動きを穏便に諭そうとする内容の手紙である。そこでは「上方では景勝がなかなか上洛しないことで、上杉討伐がすぐにも決まりそうなので、早く対応するのがいいでしょう」ということが懇々と述べられ、風雲急を告げるの観があり、緊迫する調子が強く感じ取れる。西笑はそれほど兼続と上杉家を心配していたのだ。

 それがなぜか直江状では、こうした親切な忠告の細々とした部分を、いちいち論破するものとなっている。上杉討伐を主導しようとする家康からの難詰に対するものなら、わからないでもないが、なぜここで友人を論破しようとするのか、これだと兼続がまるでただの阿呆である。

 家康は、上杉景勝が謀反するという情報の実否を確かめさせるため、上杉家に使者を向かわせた。通説では、かれらが西笑の書状を持たせられたとある。それなら、兼続が直江状で友人を論破するのも理解できないこともない。だがしかし、この認識が大きな間違いなのだ。西笑書状は兼続へのプライベートな手紙である。対する家康が派遣したのは上杉家へのパブリックな公使である。

 これを一緒くたにしてはならない。

全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/2352fec45a371a09ffd0d49ac067fc7987d94ad7

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1 :樽悶 ★:2020/09/19(土) 00:53:01.58 ID:SZvdhNgt9

サムネイル 442体の遺骨を分析、画一的な虚構を打ち破る研究

「バイキング」と聞いて私たちが思い浮かべるのは、木製のスマートな船に乗って北欧の海岸線を略奪していた、亜麻色の髪をしたスカンディナビアの屈強な戦士だろう。

 バイキングについては、複雑な血統をもつ海の冒険者を称える古い物語が数多く伝えられているにもかかわらず、彼らは「純粋」な血統をもつ独自の民族または地域集団だった、という神話が今でも根強く信じられている。しかし、バイキングを象徴する角つきの兜と同じく、これは19世紀後半のヨーロッパで燃え上がった民族主義運動が生み出した悪しき神話にすぎない。バイキングの優位性によりヘイトを正当化し、固定観念を永続させようとする白人至上主義者の間では、こうした虚構が今もなお称賛されている。

 9月16日付けの学術誌「ネイチャー」に発表された古代人のDNAの大規模研究は、私たちがバイキングと呼ぶ人々の遺伝的多様性を明らかにし、縦横無尽に活躍した強い政治力をもつ商人と探検家の集団の事実を明らかにした。それは、歴史的・考古学的証拠が以前から示唆していたことでもあった。

曖昧な起源

 バイキングとは何者だったのか? 実は、その答えは明確ではない。英語の「バイキング(Viking)」という言葉は、襲撃、探検、略奪などを意味する「viking」という古ノルド語(古北欧語)に由来する。略奪を受けた側の人々が用いたこの言葉は、「バイキング時代」とされる西暦750年から1050年にかけて、スカンディナビアの船乗りの集団を意味していた。

※省略

「民族」というより「現象」

 DNA分析の結果、バイキングは狩猟採集民、農民、ユーラシアの草原の住人などを祖先にもつ多様な集団だったことが明らかになった。また、この時代の人々がほかの地域から来た人々と混血した遺伝学的多様性の「ホットスポット」も3カ所特定された。1つは今日のデンマークで、残りの2つは今日のスウェーデンのゴットランド島とエーランド島だ。3カ所はいずれも当時の交易の要衝だったと考えられている。

 バイキングはスカンディナビアから出発し、ときにスカンディナビアに戻ることもあったが、遺伝子分析から、彼らはスカンディナビア地域内ではあまり交流がなく、遠く離れた地域を旅する中で出会ったさまざまな民族と混血していたことが明らかになった。

「遺伝子分析の結果から、バイキングが均質な集団ではなかったことは明らかです」とウィラースレフ氏は言う。「バイキングの多くは混血」で、南欧とスカンディナビアの祖先の血を引いており、具体的な例としては、祖先がサーミ(スカンディナビアの先住民)とヨーロッパ人だったりしたという。

※省略

民族に縛られない集団

 今回調べられた古代のバイキングと現代のスカンディナビア人との共通点は、意外なほど少なかった。現代のスウェーデン人のうち、1300年前に同じ地域に住んでいた人々を祖先にもつ人はわずか15〜30%で、バイキング時代以降に多くの移住と混血があったことを示唆している。

 また、バイキング時代のこの地域の住民の外見は、現在の典型的なスカンディナビア人とは異なっていた。例えば、古代の人々は、無作為に選ばれた現代のデンマーク人の集団よりも平均的に黒っぽい髪と目をしていた。

 研究者は以前から歴史的・考古学的証拠にもとづき、バイキングが国家や民族に縛られない多様性に富む集団だったのではないかと考えていたが、今回の遺伝子データは、そのことを裏付けている。

※省略

何が彼らを結びつけたのか

 バイキングが活動した範囲は広かったものの、今回の研究から、家族単位の結びつきも明らかになった。

 エストニアのサルメでは、戦いのあとにスウェーデン人の男性41人が2隻の船と武器とともに埋葬されたが、その中で4人の兄弟が並んで埋葬されていたことが確認された。研究者たちはまた、デンマークで埋葬されたバイキングと英国オックスフォードで埋葬されたバイキングが第二度近親者(遺伝子の4分の1を共有する祖父母、孫、おじ・おば、おい・めいなど)であることも明らかにした。

 しかし、こうした大規模なDNA分析では、そもそもバイキング現象がどのようにして始まったのかという疑問は解決できない。彼らを結びつけたのが民族性ではないとすれば、何が彼らを結びつけたのだろうか? 頑丈な船を造り、海上で効率よく戦う技術だろうか? それともほかの要因があったのだろうか?(続きはソース)

9/18(金) 17:11配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200918-00010001-nknatiogeo-sctch
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200918-00010001-nknatiogeo-000-1-view.jpg

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1 :首都圏の虎 ★:2020/09/14(月) 13:00:34.65 ID:Pg0fDm/i9

サムネイル ■菅官房長官は秀吉を好きな武将に
 自民党総裁選は、いよいよ本日(9月14日)が投開票日。大いに注目されている。ところで、菅義偉官房長官は、最初にナンバー2の豊臣秀長を好きな武将として挙げていた。しかし、ここに来て自民党総裁(=内閣総理大臣)を意識したからか、豊臣秀吉に好きな武将を変更した。

 秀吉といえば、時代劇などで明るくひょうきんな知恵者として描かれることが多い。しかし、フロイスの『日本史』には、秀吉の人間性について驚愕すべき評価をしている。秀吉の人間性とはいかに?

■意地悪で嫌われ者の秀吉
 秀吉は百姓の出身ながらも、鋭く問題点を見抜き、改革を行う姿勢は主の織田信長から高い評価を得た。それだけではない。命じられたことに従い、東奔西走し信長に尽くした。そうでなければ、並み居る諸大名たちと肩を並べることはできなかったであろう。しかし、勉励刻苦で改革提案型の秀吉には、裏の顔があった。

 その醜悪な姿を活写しているのが、フロイス『日本史』16章である。フロイスは秀吉が「抜け目なき策略家」であったと指摘したうえで、次のように述べている。

彼(秀吉)は自らの権力、領地、財産が増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。

 この記述は、秀吉が信長の死後に天下人となり、天正13年(1585)に関白に就任して以後の内容である。秀吉はキリスト教に理解を示さなかったので、その点で厳しい評価となっている点は認めざるを得ない。この前段においてフロイスは、秀吉を「悪魔の手先」と評価をしている。フロイスにとって、秀吉は神を恐れない悪魔だったのである。

■秀吉は野心家で不義で横暴
 このあとフロイスは、秀吉が人の意見を聞き入れず、常に独断専行であり、誰も彼に意見しなかったことを挙げている。さらに、秀吉が恩知らずであって、最大の功績者を追放したり、不名誉に扱ったり、恥辱で報いた事実を述べている。そして、次のように、秀吉の性質を結んでいる。

彼(秀吉)は尋常ならぬ野心家であり、その(野望)が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

 現代社会においても、こうした人物は少なからずいることであろう。本能寺の変を一つの契機として、秀吉の人格は以前からすっかり変わり果ててしまった。とにかく、ここではあらゆる罵詈雑言が並び立てられている。フロイスは、秀吉のそうした抜け目ない醜悪な性格を鋭く見抜いていたのである。

 以上の記述を信じるならば、秀吉はとんでもなく酷い人間性だったといえる。あまり、トップに立ってほしくない人物である。

■秀吉の本当の人間性とは
 秀吉の性格を克明に記した一次史料はなく、多くは後世に成った編纂物が大半である。フロイスの『日本史』は、秀吉が天正15年に伴天連追放令を発したので、厳しい評価を下した節があるかもしれない。一方、秀吉の書状を読んでみると、自己顕示欲に満ちて、相手を恫喝しているようなものが散見する。

 総合的に考えると、秀吉の人格は決して良いとは言えなかったようだ。しかし、どなたが自民党総裁(=内閣総理大臣)になっても、思いやりある政治をしてほしいものである。決して秀吉のようには、なっていただきたくないものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20200914-00198186/
https://newsbyl-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20200914-00198186-roupeiro-000-9-view.jpg

★1 2020/09/14(月) 09:55:35.60
前スレ
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600044935/

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1 :首都圏の虎 ★:2020/09/12(土) 19:50:54.16 ID:46tHQcxa9

サムネイル

●比叡山の焼き討ちが意味するもの

 260年余り続いた江戸時代の太平は、徳川家康が宗教家たちとうまく付き合い利用したことに成功の一部があると言われている。そういう面からいえば、織田信長は最も宗教家たちと対立した為政者と言えるだろう。

 信長の宗教弾圧の象徴とされているのが、元亀2(1571年)の比叡山焼き討ちである。比叡山とはのちの浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮、曹洞宗の開祖・道元、臨済宗の開祖・栄西などが修行をした場所であることから、日本仏教の母山とも言われ、最澄が開いた延暦寺という天台宗の総本山のことを意味する。延暦寺ではこの事件のことを「元亀の法難」と呼び、歴史の悲劇のひとつとして語り継いでいる。現代に生きる私たちは、「神聖な神社仏閣に対してなんたることを!」と考えがちだが、時代背景からはさまざまな意見が出されていることをご存じだろうか。

●戦国時代までの大寺は大名と同等の勢力

 織田信長は、戦国時代をまさに終わらせようとしていた人物である。多くの敵を力でねじ伏せ、ある時は謀略を用い、内部からの崩壊を仕掛けたりもした。この時代、大寺は大名に匹敵するほどの力を持っていた。加えて、宗派同士の争いを京の町中で起こし、あまつさえ対立する宗派の信者たちの家屋に火をかけたりしていたのだ。このため、寺の勢力維持のために僧侶たちは武装し、仏罰を恐れて満足に抵抗できない市井の民たちに対してやりたい放題のありさまであった。一方、こんな僧侶たちの暴挙とこれを許す富豪たちを、京入りした信長は嫌い、むちゃな要求を重ねた。京で富を謳歌していた豪商や僧たちは信長を見くびり、あろうことか寺は信長に対立する戦国大名に肩入れするのである。

●石山本願寺との10年戦争

 比叡山焼き討ちの前年、以後10年も信長と対立する石山本願寺が信長軍に戦争を仕掛けた。元亀元(1570年)9月12日(旧暦)のことである。石山本願寺は10年の争いの中で衰退し、豊臣秀吉の時代に寺領を明け渡す。やがて宗派内で強硬派と穏健派が対立、徳川家康の時代に東本願寺と西本願寺という目に見える形で分裂をした。本願寺は、武将たちに危険な宗教とみなされたのだろう、徳川家康は三河領内で本願寺の信仰を禁じ(20年後に解禁)、薩摩の島津藩に至っては明治時代を迎えるまで禁教であった。

●2人の天下人の怒りを買った比叡山

 さて、翌年の9月12日(旧暦)に信長は延暦寺の焼き討ちを命ずる。この時の信長軍が対峙していたのは、挙兵した三好三人衆と石山本願寺、そして信長を裏切った浅井・朝倉連合軍で、敗走した浅井軍をかくまったのが延暦寺だったのである。信長の和睦の提案を延暦寺は拒否、一晩のうちに比叡山は3万の兵に囲まれたという。信長軍が陣を置いたのが比叡山の麓にある園城寺(おんじょうじ/別名・三井寺)、ここは延暦寺のありように不満を持った最澄の弟子たちが袂を分かって、延暦寺の創建から100年もしないうちに起こしたお寺である。園城寺の創建以来、延暦寺との間で数十回に及ぶ焼き討ちなどを含めた争いが続いていた因縁の関係を信長は利用したのだ。皮肉なことに延暦寺は天下人により焼き討ちされ、園城寺は守られるのだが、次代の豊臣秀吉の怒りを買った園城寺は、ほとんどの伽藍と寺宝を破棄され、逆に延暦寺へ金堂(本尊の安置殿。本堂を意味する)の移転を強要された(現在の延暦寺・西塔[さいとう]の釈迦堂)。延暦寺と園城寺は、2人の天下人にしばらくは立ち直れないほどの打撃を与えられたのである。



全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/e606385157f5108615c087ef81c56fd01bec479b?page=1
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200911-00000032-sasahi-000-1-view.jpg

★1 2020/09/12(土) 10:58:40.20
前スレ
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1599875920/

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1 :首都圏の虎 ★:2020/09/12(土) 10:58:40.20 ID:0Biicpox9

サムネイル

●比叡山の焼き討ちが意味するもの

 260年余り続いた江戸時代の太平は、徳川家康が宗教家たちとうまく付き合い利用したことに成功の一部があると言われている。そういう面からいえば、織田信長は最も宗教家たちと対立した為政者と言えるだろう。

 信長の宗教弾圧の象徴とされているのが、元亀2(1571年)の比叡山焼き討ちである。比叡山とはのちの浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮、曹洞宗の開祖・道元、臨済宗の開祖・栄西などが修行をした場所であることから、日本仏教の母山とも言われ、最澄が開いた延暦寺という天台宗の総本山のことを意味する。延暦寺ではこの事件のことを「元亀の法難」と呼び、歴史の悲劇のひとつとして語り継いでいる。現代に生きる私たちは、「神聖な神社仏閣に対してなんたることを!」と考えがちだが、時代背景からはさまざまな意見が出されていることをご存じだろうか。

●戦国時代までの大寺は大名と同等の勢力

 織田信長は、戦国時代をまさに終わらせようとしていた人物である。多くの敵を力でねじ伏せ、ある時は謀略を用い、内部からの崩壊を仕掛けたりもした。この時代、大寺は大名に匹敵するほどの力を持っていた。加えて、宗派同士の争いを京の町中で起こし、あまつさえ対立する宗派の信者たちの家屋に火をかけたりしていたのだ。このため、寺の勢力維持のために僧侶たちは武装し、仏罰を恐れて満足に抵抗できない市井の民たちに対してやりたい放題のありさまであった。一方、こんな僧侶たちの暴挙とこれを許す富豪たちを、京入りした信長は嫌い、むちゃな要求を重ねた。京で富を謳歌していた豪商や僧たちは信長を見くびり、あろうことか寺は信長に対立する戦国大名に肩入れするのである。

●石山本願寺との10年戦争

 比叡山焼き討ちの前年、以後10年も信長と対立する石山本願寺が信長軍に戦争を仕掛けた。元亀元(1570年)9月12日(旧暦)のことである。石山本願寺は10年の争いの中で衰退し、豊臣秀吉の時代に寺領を明け渡す。やがて宗派内で強硬派と穏健派が対立、徳川家康の時代に東本願寺と西本願寺という目に見える形で分裂をした。本願寺は、武将たちに危険な宗教とみなされたのだろう、徳川家康は三河領内で本願寺の信仰を禁じ(20年後に解禁)、薩摩の島津藩に至っては明治時代を迎えるまで禁教であった。

●2人の天下人の怒りを買った比叡山

 さて、翌年の9月12日(旧暦)に信長は延暦寺の焼き討ちを命ずる。この時の信長軍が対峙していたのは、挙兵した三好三人衆と石山本願寺、そして信長を裏切った浅井・朝倉連合軍で、敗走した浅井軍をかくまったのが延暦寺だったのである。信長の和睦の提案を延暦寺は拒否、一晩のうちに比叡山は3万の兵に囲まれたという。信長軍が陣を置いたのが比叡山の麓にある園城寺(おんじょうじ/別名・三井寺)、ここは延暦寺のありように不満を持った最澄の弟子たちが袂を分かって、延暦寺の創建から100年もしないうちに起こしたお寺である。園城寺の創建以来、延暦寺との間で数十回に及ぶ焼き討ちなどを含めた争いが続いていた因縁の関係を信長は利用したのだ。皮肉なことに延暦寺は天下人により焼き討ちされ、園城寺は守られるのだが、次代の豊臣秀吉の怒りを買った園城寺は、ほとんどの伽藍と寺宝を破棄され、逆に延暦寺へ金堂(本尊の安置殿。本堂を意味する)の移転を強要された(現在の延暦寺・西塔[さいとう]の釈迦堂)。延暦寺と園城寺は、2人の天下人にしばらくは立ち直れないほどの打撃を与えられたのである。



全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/e606385157f5108615c087ef81c56fd01bec479b?page=1
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200911-00000032-sasahi-000-1-view.jpg

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1 :蚤の市 ★:2020/08/21(金) 08:55:21.10 ID:Tn/orukT9

サムネイル  国史跡に指定されている古代の役所跡「久留倍官衙(くるべかんが)遺跡」(三重県四日市市大矢知町)を紹介する「くるべ古代歴史公園」の整備がほぼ終了し、11月のオープンを予定している。当時の主要な建物を復元したり、建物の柱を立てたりして古代の行政施設を再現する。遺跡の調査を始めてから約20年。「壬申(じんしん)の乱」などの史実に結びつく可能性もあるロマンあふれる遺構がようやく一般公開され、歴史ファンらの注目を集めそうだ。【松本宣良】

 久留倍遺跡は、国道1号北勢バイパス建設工事に伴う発掘調査で見つかった。飛鳥〜平安時代にかけて当時の朝明郡の役所「郡衙(ぐんが)」があった場所とみられ、中心施設の「政庁」跡から正殿と2棟の脇殿、正門に当たる「八脚門」の遺構が発見された。南北を軸とする通常の役所跡と異なり、東を向いている点でも注目された。他に租税の稲を収納した高床の倉庫群「正倉院」の遺構も確認された。

 また、日本書紀では皇位継承権を巡る壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇)が朝明郡で戦勝祈願した後、郡衙に入ったと記され、続日本紀には聖武天皇が東国行幸(740年)で朝明郡に滞在したことが記されている。

 遺構や文献から、同遺跡が古代の地方組織の一端を知るために貴重で、古代史を解明する上でも重要として2006年に国史跡に指定され、市教委が11年度から遺跡の保存整備事業に着手。これまで古代歴史公園(約2万1500平方メートル)内に八脚門を復元したほか、正殿をモデルにした休憩所、建物の位置を表示する柱などを整備してきた。遺跡のガイド施設「古代歴史館」は2年前、隣接地に開館している。

 市教委社会教育・文化財課の葛山拓也学芸員は「地元住民や関係者らの協力でようやく公開の時期を迎えられる。歴史に興味のある人だけでなく、市内外の多くの人に古代の行政の姿を体感しながら、公園に親しんでもらえれば」と話している。

毎日新聞2020年8月21日 08時15分(最終更新 8月21日 08時15分)
https://mainichi.jp/articles/20200821/k00/00m/040/010000c

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1 :しじみ ★:2020/08/19(水) 12:16:49 ID:7j2rylh+9

サムネイル 1939年、旧日本軍が旧ソ連・モンゴル軍と戦って敗れた国境紛争「ノモンハン事件」で、戦地を無断撤退した責任を問われ自決に追い込まれた旧陸軍の指揮官が、「戦病死」として処理されていたことが、遺族が開示請求した公文書で分かった。軍上層部が虚偽の報告をしたとみられ、遺族は「敗戦の責任を押しつけた上に事実を隠蔽[いんぺい]した」と疑念を深めている。

 指揮官は兵庫県出身の井置栄一騎兵中佐(享年45)。熊本で編成された第23師団の捜索隊長として、激戦地の一つ「フイ高地」の現地部隊を指揮した。旧防衛庁が編さんした公刊戦史「戦史叢[そう]書 関東軍1」(69年)は、敵軍の猛攻により壊滅的な状況に陥る中で「独断守地を撤した」責任を取り、「自決の道を選んだ」と記述。自決は日ソが停戦協定を結んだ39年9月15日の2日後とされる。中佐は上層部から自決を勧告されたともいわれる。

 遺族には翌月、陸軍から中佐の死を知らせる電報が届いたが、死因は書かれていなかった。孫に当たる高木佐織さん(53)=横浜市=が昨年秋、国立公文書館に恩給関連の資料開示を求めたところ、戦病死となっていた。

 開示資料によると、中佐の死因欄には「戦地において流行病にかかる」との記載があり、「脚気[かっけ]のため死亡」と診断した軍医部長の証書が添付されていた。高木さんが兵庫県から取り寄せた中佐の軍歴証明書には、「脳溢血[いっけつ]のため死亡」と記されていた。

 井置中佐の自決を巡っては、自決勧告の中心人物とされる小松原道太郎・第23師団長が「戦病死(進級せしめず)として関東軍経由陸軍大臣に報告す」と日記に書き残していたことがこれまでの研究で明らかになっており、日記の内容が裏付けられた。

 ノモンハン事件に詳しい防衛省戦史研究センター所員の齋藤達志さん(56)は「小松原師団長は敗因が井置中佐の無断撤退にあると思い込み、自決に追い込んだ。自らの責任を回避しつつ、井置家の名誉も保とうとした結果が『戦病死』だったのだろう」と推察する。記録によって病名が異なる理由は分からないという。

■「戦争の実際 伝える必要」ノモンハン指揮官、?強要?自決前に手紙 にじむ悔しさ

「祖父に責任を押し付け、死因まで偽って終わりというのは、やはり納得がいかない」。ノモンハン事件で自決した旧陸軍の井置栄一中佐。孫の高木佐織さん(53)=横浜市=は、事件から80年以上もの間、真相を追求してきた父や祖母の思いを代弁する。

 生存兵の証言などによると、第23師団所属の井置部隊は旧ソ連軍に包囲されて食糧や水、弾薬が尽き、師団との通信も途絶えて孤立無援状態に。中佐は苦悩の末、「無為に全滅するより再起を」と戦線離脱に踏み切ったが、これが「無断撤退」の罪に問われた。

 井置家と交流があり、事件の調査を続ける宇城市の元高校教諭上村真理子さん(67)の手元には、中佐が自決する直前に妻に送った手紙がある。

 <軍人として少しも卑怯[ひきょう]なことはしていないからご安心を乞う。(中略)今となっては長生きして、戦争の実際を世間に伝える必要がある。然[しか]らざれば失った多くの部下が成仏できないだろう>

 妻子を安心させようと気丈に振る舞いつつ、激しい戦闘の一端と悔しさがにじむ文面。生きて帰ると信じた家族にすれば、戦いが終わったのに突然「死亡した」と知らされても不可解だったろう。

 「上層部には敗北の責任を誰かに負わせる必要があった。自ら自決したのではないと妻も思ったはずだ」と上村さん。井置中佐と共に戦った元連隊長が戦後、23師団長ら2人を名指しし「責任転嫁の意図でご主人らに自決を強いた」と告発した妻宛ての手紙も上村さんの手元にある。

 高木さんの父で中佐の次男井置正道さん(89)=神戸市=は、「戦病死」の処理に「やはり軍は自決の強要を隠すつもりだったのか」と憤っているという。

 ノモンハン事件は、最高統帥機関・大本営の戦線不拡大方針を関東軍の参謀らが無視して大規模な武力衝突に発展。甘い見通しで立てた作戦で日本兵1万8千〜2万人の死傷者を出したが、責任を取らされたのは井置中佐ら前線の指揮官たちだった。


続きはソースで

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1 :しじみ ★:2020/08/13(木) 12:29:15.30 ID:WaxUddl89

サムネイル 日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士(1907〜81年)が太平洋戦争中につづっていた日記の一部内容が、8日までに明らかになった。日米開戦に高揚する様子や詳細が不明だった軍事研究への関与が記されている。一方、物理の基礎研究に打ち込む姿も浮かび上がり、戦後に核兵器廃絶を目指して平和運動を展開した湯川博士の歩みを考える上で貴重な史料といえそうだ。

 日記は遺族が寄贈し、京都大基礎物理学研究所の湯川記念館史料室が所蔵している。これまでに敗戦や原爆投下があった1945年などの日記が公表されている。今回は湯川博士と親交があった慶応大の小沼通二名誉教授(89)が41〜45年の日記と関連資料を分析した。

 日本軍の機動部隊がハワイの真珠湾を奇襲して太平洋戦争が開戦した1941年12月8日の日記は、早朝の臨時ラジオニュースを聞いた場面から始まる。京都帝国大(現京都大)の教授だった湯川博士は、新聞の夕刊が日本軍の戦果を伝える「幸先よきニュース」で埋まっていると喜び、「却(かえ)って久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と記す。

 平和運動に人生をかけた戦後とは異なる印象で、小沼名誉教授は「湯川さんは当時、一般的な日本人と同じ感覚を持っていたようだ」と指摘する。

 41年末の日記では「歳末の感『真の勇者』」と題して、戦時下における自身の貢献について思案している。「『真理探究の道をどこまでも行く』というより他に、より有効に国家に報いる方法はないのである」との結論に達している。

 実際に湯川博士は「物理学入門」「宇宙線」などのテーマで雑誌に執筆することをはじめ、科学の基礎研究や教育に力を入れている。

 しかし戦時体制が強まるにつれ、心境に変化も生じたようだ。43年8月23〜31日の分をまとめて書いた日記では「転進すべき時が来た」と書き残し、44年から軍事研究に携わるようになる。小沼名誉教授によると、軍事研究関連の会合や視察について、日記には44年に27回、45年に12回の記述があるという。航空機や電波兵器、噴射推進機など多岐にわたる。参加しても、ほとんどが専門外のため1回で終わっている。

 湯川博士は原爆開発の可能性を探るために海軍が京大に委託した「F研究」に戦時研究員として参加したことが知られている。軍事研究について小沼名誉教授は「湯川さんは理論物理学者として根本的なことを考え続けたタイプで、何かを実用化するという仕事は不向きだった。取り組もうとはしたが、貢献できなかった」としている。

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京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/325976

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1 :しじみ ★:2020/08/10(月) 20:58:06.27 ID:V2WLcpbx9

サムネイル ■1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた

1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。

 米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。

 長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。

 第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。

 米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。

 日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。

 もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。

 東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。

■目標都市の選定

米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。

 候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。

同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。

 6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。


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続きはソースで

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★1が立った日付2020/08/10(月) 18:39:49.97
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1597052389/

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1 :記憶たどり。 ★:2020/08/07(金) 13:33:17 ID:KlbheRig9

サムネイル https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62407790X00C20A8AC1000/

幕末に新選組の屯所だった旧前川邸(京都市中京区)の隣接地で計画されている
マンション開発により景観が損なわれるとして、周辺住民ら約500人が7日、
市に開発許可の取り消しを求めて審査請求し、執行停止を申し立てた。
市は「開発審査会で判断する」としている。

新選組が拠点とした旧前川邸は、幹部の山南敬助が切腹するなど歴史的な舞台になった。
計画されているマンションは7階建てで、住民側の弁護団は、開発に必要な道路の幅員を
満たしておらず違法と主張している。

計画中止を求めて、周辺住民や新選組のファンら約4200人分の京都市長宛ての署名も提出。
旧前川邸に住む田野一十士さん(65)は記者会見し、開発により建造物に被害が及ぶ
可能性があるとして「壊れてしまうと、修復しても歴史的な価値はなくなってしまう。
なんとか計画を変更してもらいたい」と訴えた。


新選組が拠点とした旧前川邸(京都市)
https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2FDSXMZO6240777007082020AC1001-PN1-2.jpg?auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&fit=max&ixlib=java-1.2.0&s=794ed497fa9a505be1f5a277525e9ed3

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1 :かわる ★:2020/07/29(水) 10:53:47 ID:gl+SeZFG9

サムネイル 奴隷貿易が現代の南北アメリカ大陸の人口に及ぼした「遺伝的影響」について、レイプや虐待、病気、人種差別が関係していたとするDNA研究の結果が23日、米科学誌に掲載された。

米遺伝子検査会社「23andMe」が主導したDNA研究には、5万人以上が参加。大西洋を隔てたアフリカ大陸と南北アメリカ大陸に住む、アフリカ系の祖先を持つ約3万人も含まれる。

この研究は、16世紀から19世紀にかけて奴隷としてアメリカ大陸へ売買された数百万人ものアフリカ人の運命について、新たな観点から見直すものとなった。

研究結果は米科学誌「American Journal of Human Genetics」に23日に掲載された。

歴史的資料との不一致

1515年から19世紀半ばまでの間に、1250万人以上のアフリカ人が売買された。

奴隷にされた男性と女性、子供のうち約200万人がアメリカ大陸に向かう途中で死亡した。

23andMeの集団遺伝学者スティーヴン・ミケレッティ氏はAFP通信に対し、遺伝的結果を奴隷船の記録と比較して、「どう一致して、どう異なるのかを見極める」のが目的だったと述べた。

奴隷にされた人がアフリカ大陸のどこから連れてこられて、アメリカ大陸のどこで奴隷にされたのかという点については、研究結果の大半は歴史的資料と一致した。一方で「一部のケースでは、かなり甚だしく一致しない」結果がみられたと付け加えた。

この研究ではもうひとつ、むごい発見があった。アメリカ大陸各地で奴隷にされていた女性への扱いが、現代の遺伝子プールに影響を及ぼしているという点だ。

奴隷の大半が男性だったにも関わらず、遺伝子プールへの影響はアフリカ系男性よりアフリカ系女性の方が圧倒的に多い。「奴隷主によるアフリカ人女性のレイプや、そのほかの性的搾取」が要因にあるかもしれないと、研究者たちは指摘した。

ラテンアメリカでは、アフリカ人男性1人あたり最大17人のアフリカ人女性が遺伝子プールに寄与していた。研究者たちは、多数の国に存在した「ブランケアメント」と呼ばれる白人化政策が一因だとしている。白人化政策では、「(混血の)子供を多く作ることでアフリカ系血統の影響を薄める」ため、欧州男性の入植移を積極的に奨励していた。

全文は:https://www.bbc.com/japanese/53550421

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1 :ブギー ★:2020/07/21(火) 12:07:40 ID:MP6+CEnZ9

サムネイル 中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国は、女王卑弥呼(ひみこ)の存在とともに多くの歴史ファンを魅了してきた。しかし、「邪馬台国がどこにあったのか」という最大の謎については、江戸時代以来、論争が続く。大きくは九州説と近畿(畿内)説の二つに分かれる中、近年になって相次いでいるのが九州説を唱える書籍の出版だ。考古学界では近畿説が圧倒的優位に立つ中、なぜ九州説の「逆襲」ともいえる状況が生まれているのか。【西部学芸グループ・上村里花】

https://mainichi.jp/articles/20200721/k00/00m/040/051000c

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